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山岡浩二郎


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わが青春の譜


 原著は故山岡浩二郎氏(ヤンマーディーゼル(株)専務取締役、ヤンマー農機(株)専務取締役、(株)神崎高級工機製作所社長・会長、(株)昌運工作所社長・会長)の個人出版の「わが青春の譜」(1997年5月発行)。「”光陰矢の如し”とはよく申したもので、私が昭和17年にヤンマーディーゼル株式会社(当時は山岡内燃機株式会社)に入社してから早や55年、あっという間の駆け足半世紀でした。齢も数えで80歳となり、この辺りで一息ついてわが人生を振り返ってみるのも明日への糧と思い、一冊にまとめてみました。手前味噌のお恥ずかしいばかりの書きものですが、今日までお世話になりました皆様へ感謝の気持ちを込めてお届けしますので、ご笑覧いただければ幸甚でございます。平成9年(1997年)初夏」という手紙とともに自宅に送られてきた。
 それから3年後、2001年1月、山岡さんは心不全で亡くなられた。お礼の電話で話をしたのが最後になってしまった。あれほどお元気だったのに………と絶句した。
 僕が山岡さんと出会ったのは1974年頃、山岡さんが56歳、僕が29歳の頃だった。以来、いろいろお教えいただいた。今回、関係者の了解が得られ、電子化のために再び「わが青春の譜」を読んでいる。山岡さんとのやり取りが走馬燈のように浮かんでくる。山岡さんが亡くなられてから1年後、ヤンマーディーゼルは社名変更してヤンマーとなった。寂しいことであるが、ディーゼルの名前が社名から消えてしまった。(前田勲男)



                                 
序に変えて
スポーツに明け暮れ
わが青春の序曲
呉海軍工廠
呉の生活
終戦前夜
ヤンマーの生産開始
旧海軍の技術者招聘
賠償指定工場
K型ディーゼルエンジンの開発
K型ディーゼルエンジン開発余話
賠償指定工場
欧米視察旅行
人材育成について
必要な若手技術者育成
神崎高級工機製作所社長就任
就任時の神崎高級工機製作所
歯車集中生産とトランスミッション開発
ヤンマーのブラジル進出
現地生産が軌道に乗るまで
万全を期した機械設備
鋳物専門会社フンジツーバ社の開業
忘れ難いこと
創業三十周年からの回想
ヤンマー農機設立前後
康人副社長の決断
総合研究所長として
1970年欧米諸国見聞記
工作機械屋の眼差しで
パーキンス社・他訪問記
カズヌーブ社・他訪問記
アメリカの工作機械
シカゴで考えたこと
ヤンマーグループ初のアメリカ生産工場
米国との二つの訴訟事件から
ヤンマーサッカー部と共に
自ら総監督になって
コミュニケーションで切り開いた黄金時代
釜本監督と共に
サッカーで考えたこと
地域社会との融和
長浜のテニスコート
ヤンマー杯近府県軟式庭球大会
長浜工場雑感
東阿閉会館のこと

社名のディーゼルについて
年譜
あとがき


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山岡浩二郎

1918年 大阪生まれ
1941年 大阪帝国大学
    (現大阪大学)
     工学部機械工学科卒
1942年 山岡内燃機関
   (現ヤンマーディーゼル)
     入社
     海軍技術中尉任官
     呉海軍工廠造機部勤務
1945年 技術大尉で復員
     山岡内燃機関復職
1952年 ヤンマーディーセル
     長浜工場長
1956年 ヤンマーディーゼル
     取締役製造部長
     海外事業部長
     長浜工場長
     神崎高級工機製作所
     社長兼任
1958年 ヤンマーディーゼル
     常務取締役
1961年 ヤンマー農機
     取締役兼任
1963年 ヤンマーディーゼル
     専務取締役
1966年 ヤンマー農機
     専務取締役兼任
1970年 昌運工作所社長兼任1972年 工学博士
1993年 昌運工作所会長兼任
2001年 死去





















当研究所では以下の活動に協賛しています。


  上智大学アンコール遺跡国際調査団

  財団法人 科学技術融合振興財団



  日本スカラベイニシアティブ

  構想日本


メンバー用掲載内容

「週刊インテリジェンスダイジェスト」(坂本義実)
「アジア知財情勢(月刊)」(井口雅文)
「ワシントン情勢(月刊)」(多田幸雄)
「北京便り」(西村英俊)
「最前線シリーズ」(白金次郎)
各種調査レポート(前田勲男)

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