戦略経営研究所 株式会社エス・ケイ・ケイ

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OSE−OSEC








はじめに


 OSEーOSECとは一体何なのか。様々なホームページを見て楽しんでいる人のほとんどは分からないと思う。今から10年以上前にさかのぼる。その先駆けとなると、20年以上前にさかのぼる。OSEはOpen Systems Enviroment(開放型システム環境)、OSECとOpen Syatems Enviroment Consortium(開放型システム環境コンソーシアム)の略である。

 こう言えば、多分、製造に絡んだ情報化だろうと想像が付くだろう。その通りである。多くの企業とそのエンジニアが急速に進歩する情報処理技術と機械技術との融合を目指し、努力した。1994年末にスタートし、1995年度、1996年度、1997年度、1998年度と約4年間にわたって活発な活動を展開した。成果はホームページや論文などとして公開し、国際会議でも発表した。日本国際工作機械見本市(JIMTOF1996)やメカトロテックジャパン(MECT1997)に、その実証システムを発表し、インターネット利用の製造装置の遠隔稼動状況監視システムなどを含めて実演も行った。

 そこでの様々な成果は当時は間違いなく情報技術と製造業という分野での先端を進む、「波頭」のようなものだった。そしてまさに「波頭」の宿命である。後ろから怒濤のように次々と押し寄せてきた技術革新の次の「波頭」に潰され、飲み込れ、もはやその形を留めてはいない。

 OSEーOSECで技術的に目指したこと、その活動の仕方も当時としては異例のメールでの情報交換をベースとするなど、その後のトレンドを見ると間違いなく時代を先取りしたものであった。この活動に参加された、それぞれの組織の幹部だった人たちの多くは既に現役を引退し、故人となった人もいる。現在は、その人たちの薫陶を受けた人たちなどが活躍している時代である。

 しかし、多分、今現在、現役で頑張っている人には、若い時代のこと、過去のことについて振り返る余裕はないと思う。まして一時の「波頭」を追跡することなどないだろう。

 ところが、いったん人間の歴史やその一角を占める科学技術史などに興味を抱くと、単純に現在の状況ではなく、それにつながる動きの「波頭」の誕生・消滅などが、それに関わった人たちの生き様などへの思いが生々しく感じられるようになる。そうした実感を持っているもので、いずれの日か懐かしく思う人たちが現るに違いないと思い、OSEーOSECの活動の事務局(元(株)エス・エム・エル、現(株)エス・ケイ・ケイ)にあった者として、残された資料を整理し、機密ではない情報については次世代の人たちのために公開する責務があると考えた第である。

 ちなみに、その組織や活動などについては、OSE協議会「OSECⅡプロジェクト報告書(要約版)ーOSEC仕様オープンコントローラの開発」(1998//8/20)の「巻頭言」に以下のようにまとめられている。

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東芝機械、豊田工機、ヤマザキマザックの工作機械3社と日本アイ・ビー・エム、三菱電機および情報システム開発会社エス・エム・エルの6社は1994年12月に次世代の産業オートメーション構築の要となるCNC等のFA制御機器装置一般のオープンアーキテクチャ化を目指したOSE (Open System Environment)研究会を結成致しました。その後このFAオープン化活動に賛同、協力する企業・団体が新たに加わり、現在参加メンバは18社1団体で活発な推進活動を続けて参りました。

 ご承知のように既に欧米においてはCNCを中心とした広範なFA制御機器(NC工作機械、ロボット等の制御機器が対象)に柔軟に対応できる幾つかのオープンアーキテクチャの提案が成されております。

 OSEC (Open System Environment for Controllers)は前記OSE研究会の成果を纏めて新たに提案する制御装置の略称であります。OSE研究会の精神は『オープン』を目的にしておりますので、そこで議論されたアーキテクチャおよびインタフェース仕様書は一般に公表・提案すると同時に将来のCALS端末用FA制御機器の標準化にも些かでもお役に立てることを願っております。

 今回のドキュメントは、昨年9月に公表したOSEC Version 1.0 (OSEC-I)についでOSEC Version 2.0 (OSEC-II)に相当するものでありますが、このドキュメントも『オープン』の性格上一般に広く公開することと致しました。われわれの成果はOSECメンバで独占することなく、多くのユーザ各位およびベンダ各位からの広範なご意見を頂戴してより完全を期したいと考えております。

 各位がOSEC仕様に準じた制御装置をお使い戴ければ、よりユーザオリエンテッドで、よりユーザフレンドリなオープンCNCが自由に取捨選択できる真のマルチベンダ環境が創出されものと確信しております。OSE研究会は今後ともその活動の透明性を確保しつつ、企業や団体・個人等が自由に参画して具体的活動が継承できるように、関係諸機関とも協力して開発体制を整備して参る所存であります。

 われわれの今回のOSEC仕様公開がわが国の次世代コントローラ開発の積極的な競合開発環境の整備や関連業界の活性化に少しでもお役にたては誠に幸甚であります。

 われわれOSE研究会は世界の技術開発競争にひけをとらぬ成果を挙るべく鋭意、継続的な努力を続けて参りますので、今後とも皆様方のより一層のご支持とご支援をお願い申し上げる次第でございます。


OSE研究会(アイウエオ順)

株式会社エス・エム・エル

株式会社唐津鉄工所

株式会社小松製作所

株式会社ツガミ

株式会社新潟鐵工所

株式会社日平トヤマ

株式会社安永

クボテック株式会社

財団法人機械振興協会技術研究所

ソニーマグネスケール株式会社

東芝機械株式会社

豊田工機株式会社

日本アイ・ビー・エム株式会社

富士機械製造株式会社

富士電機株式会社

ブラザー工業株式会社

三菱電機株式会社

ヤマザキマザック株式会社

ユアサ商事株式会社



その前史ーーGM社のMAP騒動

 この動きの前提、背景には、その10年ぐらい前に起こった出来事がある。そこで製造業にとって今後は情報処理技術が極めて重要性な意味を持つということと同時に、その扱いについてはビジネス的にも、「情報公開」、「国際標準」、「デファクトスタンダード」などについて考えることが、世界の中で自分たちの主張を貫くためには不可欠で、そのためには従来とは違ったやり方での努力も必要だということを学んだ。

 それはMAPと呼ばれる、「通信プロトコル」の一種で、それについては詳しくは本ホームページに書かれている和田龍司・元(株)豊田工機専務取締役・元摂南大学教授の
「情報の世紀のモノづくり考(13) 製造業と情報ネットワーク」(2001/4/17)を参照されたい。同氏は、まさにMAPの当事者であった。当時の状況が、概略、以下のように書かれている。

 なお、MAPという「通信プロトコル」は、今で言う「ブロードバンド」で、当時は、それを実現する物理的な通信回線は「同軸ケーブル」であった。そのコンセプトに触発されたものの、物理的に「同軸ケーブル」を張り巡らせることは大変で、そのコンセプトの普及のためには通信技術・通信回線技術の進歩を待たなければならないだろとも考えさせられた。同時、それは技術進歩を待つとして、それらが開発された後に「どうすべきか」ということが問題になり、その問題意識からOSEーOSECは発足することになったのである。

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 変化がゆるやかな時代には、情報は、相対的にそれほど大きな意味を持たなかった。しかし、変化の速い時代には、情報の重要性は格段に増す。それどころか、情報は企業の死命を制するとさえいわれている。

 情報ネットワークは、経営システムの構築の大前提であるという議論は、その延長線上で語られているものだ。そして、情報ネットワークに対応して、経営の在り方や経営組織の構成も従来の多階層経営からネットワーク型の経営組織への変革の必要性が叫ばれていることも周知の通りである。

MAP-工場自動化のためのオープン・ネットワーク用プロトコル

 生産現場の状況にも、同じような変化が起こった。

 大きな生産の変動に対応しにくい大艦巨砲型の中央集権型生産システムから、より柔軟性のある地方分権型(分散管理型)の生産システムへの変革が望まれ始めて久しい。このような状況のもと、工場用の標準化されたオープン・ネットワークの必要性と重要性とが浮かび上がってきたわけである。

 そこで思い出されるのは、以前に筆者が関係したMAP の命運である。

 ここで言うMAP とは地図のことではない。工場の自動化のための通信規約(プロトコル)を意味する“Manufacturing Automation Protocol”の略語である。

 プロトコルとは、コンピュータ同士のデータ通信の際の規約や約束事と理解すればよいだろう。たとえば、インターネットではTCP/IP( Transmission Control Protocol/Internet Protocol)というプロトコルによって実現している世界規模の情報のやりとりのしくみである。インターネットには、そのうえに、さらに「http」や「ftp」などの用途別のプロトコルがあり、Web(ホームページ)やファイルのやりとりを行っている。コンピュータどおしをつないで何かを行うには、プロトコルは不可欠である。プロトコルができてはじめて、ネットワークが実現するといってもよい。

 このように、プロトコルによって情報・通信の標準化を推進することは、今や世界的にも大きな課題となっている。

 このように、MAP はFA(Factory Automation)やCIM(コンピュータ統合生産システム; Computer Integrated Manufacturing system)の世界で、マルチベンダー環境を実現しようとした野心的な提案であった。

 つまり、MAP は工場自動化のためのオープン・ネットワーク用プロトコルとして、異機種間の相互接続性・相互運用性などの共用性を目的に開発、提唱された技術であり、国際標準のFA 用のLAN(Local Area Network)をめざす取り組みとして出発した。しかし、残念ながら、その後の展開は当初予想したほどの広がりを見せず、衰退の運命をたどることとなったのである。

MAP の公開−GM の英断

 1980 年代の日本の自動車メーカーの急激な進出に危機感を抱いた米国の自動車メーカーは、先端企業の買収や生産現場の革新のための最新鋭生産設備の導入にきわめて熱心であった。なかでもGM はたいへん積極的で、生産工場の自動化の切り札として通信プロトコルの統一を進めていた。これがMAP である。そのスポンサーが当時同社の会長だったロジャー・スミス氏である。

 彼は、約10 年間にわたってGM の会長を務めたが、会長在籍時の業績については色々な見方がある。マリアン・ケラーの『GM 帝国の崩壊』(草思社刊)やアルバート・リーの『GM の決断』(ダイヤモンド社刊)の中では、彼に対するかなり辛辣な批判がなされている。

 たとえば、マリアン・ケラーは、その著書の中で、積極果敢な先端産業分野の企業買収と巨額な自動化設備投資路線を推進したが、いわゆる財務畑出身者として製造現場への理解不足とヒューマン・ファクターへの配慮不足が問題だったと指摘している。たしかにストラデヴァリウスを買ったからといって、誰でもアイザック・スターンのようにヴァイオリンが弾けるというわけではない。それは、正しい批評だろう。

 しかしながら、スミス氏にまったく見るべき業績がないというわけではない。それがGM によるMAP の提案・開発と、その公開である。知的財産権の主張せずに、そのプロトコルを公開した英断は評価されてしかるべきであろう。筆者は、そう考えている。

 GM のMAP の公開によって、このMAP をもとに、生産現場の情報ネットワークの共通のプロトコルをつくろうという機運が高まった。前述した通り、生産設備が共通のプロトコルに基づいたオープン・ネットワークが実現すれば、設備導入のコストも、また、情報の連携の面でも格段の飛躍が実現することは、間違いなかった。

てんやわんやのMAP 導入の顛末

 以下、日本におけるMAP 推進の足取りとその数奇な運命について述べてみたいと思う。(財)製造科学技術センターの前身である(財)国際ロボット・エフ・エイ技術センター(IROFA)が正式に発足したのは1985 年の夏のことである。

 そして、筆者は当時、レーザ応用複合生産システム研究組合の技術委員長を仰せつかっていた。この研究組合に、ある人を介して、ユーザー主体の世界規模の連合組織を結成してGM 社が提唱するMAP を啓蒙・普及活動を展開したいので協力して欲しいとの意向がもたらされた。公式には、これがわが国のMAP 事始めであった。

 とはいえ、MAP はすでに日本国内で大いに注目され、さまざまな動きも起こっていた。そのきっかけは、その前年の1984 年に正式にMAP ユーザ団体が結成され、同年7月のNCC‘84(Nationl Computer Conference)のデモンストレーションで華やかに登場したからである。これに対して、さる学術団体が中心となってGM 社に働きかけ、日本でのMAP 講習会開催を計画した。これに対して、GM 社は講師陣をはじめ日本への旅費・交通費その他一切をGM が負担すると言う好条件の提示さえあった。GM は自ら公開したプロトコルを積極的に普及させていこうとしていたのである。

 しかしながら、この講習会は、直前になり開催不能の事態に追い込まれた。GM 社側から出席メンバーリストの提示を求められ、単なる勉強会の講習会では駄目だと釘を刺された上で、参加企業名を連絡して欲しいという連絡がきたからである。CIM やFA に関心のある技術者や研究者を主体に勉強会形式の計画を練っていた当事者は、このGMからの連絡を受けて、その事態の急変に飛び上がらんばかりに驚いた。相談の結果、引き受け団体の推薦を通産省に取り次いでくれないかと申し入れが行われた。

 そこで、前記の研究組合の方々に事情をお諮りした結果、講習会の開催は、今後の日本の産業界にとってもたいへん重要な工場自動化の情報通信技術に関する最新知識を紹介する良い機会となるのでぜひとも実現すべきではないかとの結論に達し、通産省に協力をお願いすることとなったというわけである。

 幸いにも、当時の通産省の担当官のI氏は直ちに動いてくれて問題の打開を図ることになったが、何せお盆休みが始まらんとする7月末のことである。関連企業に協力をお願いするにしても、物理的にも時間的にも完全に手遅れであった。それこそ各人の人脈頼りの電話作戦に頼るしか実現方法は100%不可能な状態であった。

 しかも、引き受け組織としては当然IROFA が最適任だが、ほんの1 月前に発足したばかりの出来立てホヤホヤの組織であり、動くのは無理だということになった。結果的に、MAP 導入問題は、大きな課題を抱えたまま、筆者が技術委員長を務めるレーザ応用複合生産システム研究組合が臨時り引き受け組織とならざるを得ないということになってしまった。

 かくして、研究組合内部は、てんやわんやの状態になった。アニメの宇宙戦艦ヤマトが人気全盛の頃だったので、それをもじって前出のO 運営委員長から「戦艦大和はもう出発したのだから、やるきゃないよ」と妙な激励を受けたのも懐かしい。

 関係各位の必死のご努力が実を結び、お盆明けのMAP-Japan Meeting は会場の日本消防会館に400 名余の聴衆を迎えて大成功裡に完了し、関係者一同ホット安堵の胸をなでおろした次第であった。

MAP の残照—その誕生と死

 そして、その年の11 月にMAP 啓蒙活動などの関連事業は正式にレーザ応用複合生産システム研究組合からIROFA に移管されて、着任早々の通産省出身のT 常務理事を中心に積極的なMAP 啓蒙推進活動を開始したのである。

 わが国のMAP 普及の活動はその後、紆余曲折はあったが関係者各位の熱心な協力があり、順調に展開できた。とくに、工業技術院の研究開発官等を勤められ、退官後は気鋭の起業家としてシステム企業を起こされ活躍中のM 氏達グループの強力な支援のお陰であった。

 MAP は、LAN の基幹ネットワークとしては過不足はないものの、フィールドネットワークとして直接FA 機器等に接続するには、重装備過ぎるところがあったので、MAP の簡易版として、より低価格のミニMAP 相当のFAIS(Factory Automation Interconnection System 工場自動化のための相互接続システム)が提案された。

 FAIS は、92 年にミニMAP として国際的にも認められ、国内27 社の企業の参加を得て、公開実証実験やデモが開催され、日本で研究・開発された始めての国際的標準ネットワークとして多くの関心が寄せられその発展が期待された。

 さらに、通産省の肝入りでMAP 認証のためのMAPテスト・センターが(財)機械振興協会技術研究所内に設置され、その活動が国際的にも大いに期待された。

 しかし、その後の世界的な経済不況や、スミス会長の退任と期を同じにして肝心のGM が推進母体から脱落した事情も加わって、MAP の進展は予想に反して遅々として進まず、運動は停滞を余儀なくされるに至った。

 MAP は、今日のブロードバンド・ネットワークを見越した先見性の高い技術ではあった。有線TV網すら整備されていない当時のIT 基盤未整備ではやむをえないことだったかもしれないが、MAPの放棄は、わが国製造業の情報化戦略を停滞させ
たことは間違いない。

 ブロードバンドのインターネットが現実のものになろうとしている今日を見るにつけ、出生が余りにも早すぎたMAP の悲劇を感じざるを得ない。

 技術的に妥当性のある取り組みや、技術的に実現性の高い課題はさまざまある。しかし、それが実現するためには、別のファクターが必要になる。MAP はその大切さを教えてくれる。特に、プロトコルの標準化といった問題には、技術的な次元を超えたさまざまな思惑が働くものだ。こうしたことをクリアして初めて、ものごとが実現するわけである。(2001/4/17)

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 この上記文では、和田龍児氏は注意深く言葉を選んでいるけれど、一連の同氏の著作を読むと、その根底には「理論と技術の跛行性」ーーー理論が技術開発を誘導し、技術進歩が新しい理論を生むーーーといった意識が横たわっていると思う。将来を断定することは難しい、だからころ、いつの時点においても、理論的なことにも現実の技術レベルのことについても、偏見を排除し、等しく注意を払うように努めなければならないと示唆しているように思う。

 そう思うと、OSEーOSEの活動の記録を残しておきたいと思う。以下が当時のOSECのホームページの入口である。リンクが張られているので、参照願いたい。(前田勲男)










Welcome to OSEC Homepage!!

(Open System Environment Consortium)






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